ヌシ様。聞きなれない単語だ。ヌシ――主の名が示す通りであれば、どこかの場所を治めている者なのだろうか。当然ながら、セツは自分がそんな大層な存在になった覚えはない。
「……違うのですか?」
 黙り込んだセツを不審がってか、少女が次なる問いかけを投げかけた。
 セツは悩んだ。本来であれば、一言「違う」と伝えるだけで済む話だが――。数刻の間を置いて、意を決したセツは灰色の瞳を真正面から見据え、告げた。
『あ、ああ。ヌシ様とやらではないが』
 しかしセツがどう言葉を発しても、少女は不安そうに眉根を歪めるだけだった。
 やっぱりか、とセツは嘆息した。竜以外に竜語を理解できる存在など、セツの知っている限りではメリュを含めてたった3名しかいない。メリュを介さずに会話でコミュニケーションを取るのは無理だ。
 ジェスチャーで否定の意思を伝えられないかと、首を振る、翼を動かす等、考えられるだけの行動を取ってみた。が、少女から納得いった様子は見られない。得られた成果と言えば、せいぜい不安が不審にすり替わった程度か。
 会話はダメ。ジェスチャーもダメ。完全に手詰まりとなってしまった。雨上がり特有のじっとりとした空気が、少女のぼんやりした視線とともにしつこく絡みついてくる。彼女の乱れた金髪が風で擦れる音さえも、セツを急かすようだった。――もう逃げたい。弱気がピークに達した時。
「おまたせー。気分はどう?」
 声が聞こえた。メリュだ。両腕に抱えた肉の山、その脇から覗いた顔が、セツにはいつもより2割ほど輝いて見えた。少女へと微笑みかけるメリュ、それとは真反対に、少女の顔は突然割り込んできた第三者への警戒心で再び影が落ちていた。
「ええと、あなたは……?」
「ん? ああ、通りすがりの配達屋だよ。そっちの子もね」
「配達屋さん、ですか」
 少女の反応は生返事だけだったが、正体が分かったことで警戒は薄れたようだ。身体の強張りを解き、落ち着かない様子で視線を周囲に巡らせた。
「……私なんかにどんなご用でしょう」
 焚き火の準備を進めていたメリュが、少女の質問を受けてその手を止めた。少女からでは陰になって見えないだろうが、メリュの顔は露骨に面倒くさそうだ。
 面倒臭がっている理由をセツは察した。少女は自分の置かれている状況が理解できていないのだ。よくよく考えてみれば、少女はずっと箱の中にいたせいで事故現場を目にしていないのだ。無理もない。
 メリュはセツへ目配せする。「素直に伝えるべきだろうか?」と問いかける瞳へ、セツは少し悩んだ後、頷いて返答した。
「落ち着いて聞いてね。君の乗ってた馬車が雨で事故を起こしたみたいなんだ。私達は偶然そこに居合わせてね。気を失ってる君を運良く見つけたんだよ」
「事故、ですか」
 少女は頭に巻かれた包帯に手を当て、自分へ言い聞かせるように反芻した。意味を噛み締め、安堵と戸惑いをため息に乗せた直後、少女はハッとした表情で口を開く。
「あの、御者さんはご無事でしょうか?」
「彼は……私達が着いた時にはもう」
 少女は「……そうですか」と力のない呟きを発した。当人はまだ事故に遭った実感が湧かない様子だが、身体の方は落下の恐怖を刻み込まれたのか、微かに震えている。メリュも心なしか居心地が悪そうだ。嫌な役回りを押し付けてしまった、とセツは自分を責めた。

「――助けていただいてありがとうございました。私はリオーネと申します」
 しばらくして少女――リオーネは、ぎこちないながらも笑顔でメリュへ向けて頭を下げた。自分がウジウジしていても仕方ない、と割り切ったのか、メリュもにこやかに返答した。
「お礼なら隣の子にも言ってあげて。君を見つけたのはその子だからさ」
 突然話を向けられたセツは、「余計な事をするな!」と内心で叫んだ。先ほどコミュニケーションを取ろうとして失敗したばかりなのに、今更どんなやり取りをしろと言うのか。リオーネもまた対応に困ってか、落ち着きのない目線を空中に向けるだけだった。
 ふと、メリュは難しい表情を浮かべ、自らのこめかみを人差し指でトントンと叩いた。何事かとセツが様子を見ていると、メリュは手元にあった焚き火用の枝の1本を掴み、リオーネの近くに向けて投げた。弧を描く枝をセツは目で追う。枝と草がぶつかる軽い音が、セツの鼓膜を震わせた。リオーネも不思議がってか、音のした場所へと引っ張られるようにして首を向けた。
 意図の掴めないセツ,リオーネとは対照的に、メリュは納得のいった様子で口を開いた。
「ねぇリオーネ。変な事聞くようだけど……ひょっとして君、目が悪い?」