大粒の雨が、ぬかるんだ地面へ足あとを刻みつけていく。黒い雨雲は山を覆い尽し、水滴のヴェールによって数歩先の見通しさえつかない状態だ。鳥が、獣が、そして旅人が――山に足を踏み入れていた全ての存在が、留まることを知らない雨粒の行進の前にひれ伏す他なかった。無謀な者に慈悲を与えるほど山は優しくない。彼らはそれを知っているから。
 故に山で痛い目を見る者は、無謀な挑戦者か無知な被害者のどちらかである。果たして、馬車の下敷きになっているこの男は一体どちらだったのだろう。物言わぬそれを見下ろしながら、灰色の飛竜ワイバーン――セツは自問した。

 現場を発見したのは単なる偶然――いや、それ自体が事故のようなものだった。雨宿りの最中に、目の前へ馬車が滑り落ちてくるなど誰が予想できただろう。少し間が悪ければ、自分まで巻き込まれていたかもしれない。思い返すだけで肝が冷える。
 馬車に何が起こったのか調べるために、セツは長大な翼を羽ばたかせた。雨粒を吹き飛ばしながら山の斜面に沿って飛行していると、ほどなくして山道らしき平らな道に辿り着く。着地したセツの視界に飛び込む、泥まみれの山道に刻まれた車輪の跡と、盛大に壊れた柵。どうやら先ほどの馬車はここから落ちたらしい。足場と視界の悪さが引き起こした、単なる事故と見て間違いないだろう。足裏に纏わりつく泥の不快感に顔をしかめながら、セツは落下した馬車の下へと向かった。
 改めて斜面を下りてみると、想像していたよりも落ちた距離が長い事に気付かされた。満足に身動きも取れない状態で、長時間に渡って痛みと恐怖を与え続けられたのだろうか。全くもって嫌な最後だ。
『メリュ、そちらはどうだ?』
 脳裏に描いた嫌な想像を振り払うように、セツは大声を発した。声を向けた先は、馬車の脇に屈みこんでいる小さな人影だ。セツが傍らに舞い降りると、人影は不快さで満ちた顔をセツに向けた。
「えーと……うん、ポッキリ」
 自分の首元をトントンと叩きながら、白髪の少女――メリュは、脇に横たわる馬に目を向けた。それだけで彼女の言わんとする事は理解できた。
 重苦しいため息と共に立ち上がるメリュ。その動作が緩慢なのは、ずぶ濡れになった防寒具が邪魔しているだけではないだろう。
『雨宿りしてる場合ではなくなったな』
 見ず知らずの相手とはいえ、このまま雨ざらしにしておくのは忍びない。できる範囲で弔ってやるのが、この場に居合わせたものの勤めだろう。セツはそう考えた。
「だね、流石に死体と一緒に雨宿りは勘弁だよ。あんまり動き回りたくないけど、別の場所を探そう」
 しかし、メリュの口から出た言葉は、セツの思い描いていたものと別方向のものだった。
『弔ってはやらないのか?』
 セツはメリュの顔を覗き込みながら、怪訝そうに問いかけた。白髪の隙間から覗く青い瞳には、哀れみや同情のような感情は一切見えない。ただただ、この状況が「迷惑だ」とだけ語っているように見えた。
「やらない方がマシだよ。埋めたところで、後から獣に掘り返されて餌になるだけなんだから」
 ついさっきまで生きていた人間を餌呼ばわりか、とセツは呆れた。遠慮のない発言はいつも通りだが、今回は状況が状況だ。もう少し言い方というものがあるだろう。モヤモヤとした感情のままに、セツはメリュへと突っかかった。
『人が死んでるんだぞ』
「人間だから、他の生き物だから、って問題じゃないよ」
 メリュは濡れた前髪をかき上げながら、ばつが悪そうに呟いた。責めるわけでもなく、諭すわけでもなく、ただ「自分の考えは変わらない」と主張する芯の強さ持った声色で。突き放すような態度にむっとしながらも、セツには返すべき言葉が思いつかなかった。
 説得を諦めたセツは、馬車を身体で押し上げ、男の身体を自由にした。埋葬のための穴を掘ってやりたいところだが、前肢のないセツには難しい注文だ。足の爪を地面に突き立て、何度引っ掻いても、ぬかるんだ土に歪な爪痕が増えるばかりだ。一向に掘り進む気配はない。
 もどかしさを噛み殺しながら、セツはひたすら穴を掘り続ける。やがてセツは、疲れに作業の足を止めた。彼の目の前には、小動物1匹を埋められる程度の穴しかなかった。
 へたり込み目を伏せるセツ。ふと、彼へと近づく足音が聞こえた。うっすらと開いたセツの目に、馬車から剥ぎ取ったと思しき木の板を持ったメリュが写り込んだ。
「視界が良くなるまでの暇潰しだからね」
 ほら下がって。と無愛想に告げたメリュは、セツの掘った穴へ木の板を突き立て、そのままスコップの要領で穴を掘り進めていく。黙々と作業を続けるメリュへかける言葉が見つからず、セツは大人しくその場を離れた。
 なんとなく馬車の近くまで戻ったものの、何かできる事があるわけでもない。メリュが望まぬ作業をしている最中に自分だけが休むのも気が引ける。セツは天を仰いだ。黒い雲からは雨が打ちつけるのみで、答えが降ってくる形跡はなかった。
 そのままボーっと、降り注ぐ雨に身を委ねていた時、セツは固いものがぶつかるような音を耳にした。音のした方向にある物は壊れた馬車のみ。風で飛ばされた木か何かがぶつかったのだろうか。
 気になって馬車のそばまで歩み寄ったが、それらしいものは周りに転がっていない。不審に思ったセツは、視線を馬車の中に向けた。内部はメリュが確認したため、中がどうなっているのか見るのは初めてだった。
 車内には紐で縛られた木箱があるのみで、椅子や装飾の類は一切見られない。馬車というより荷車だな、とセツは心中で呟いた。中を一望したが、結局音の出処らしいものは見つからない。気のせいだったか、とセツが結論づけた時、目の前で木箱が微かに動いた。驚きに身をすくませるセツ。恐る恐る木箱へ首を近づけると、緩んだ蓋の隙間から、微かに鉄のような臭いが漏れでていた。血の臭いだ。
『メリュ!』
「何? こっちも結構大変なんだけどー」
 非難するようなメリュの声を尻目に、セツは木箱を首で器用に手繰り寄せ、紐を解く。メリュの到着を待つ間すら待てず、蓋を開け放ったセツは、中にあったそれを見て言葉を失った。
「ちょっと、勝手に人の荷物開けちゃダメでしょ! 何が入ってるかわからな――」
 遅れて到着したメリュも、セツの見たものを視界に捉え、表情を強張らせる。

 箱の中身は、頭から血を流した少女だった。