「まだ温かい。この子、生きてるよ」
 箱から少女を抱え出しながら、メリュは自分に言い聞かせるような口調で告げた。
「頭打っただけで済んだのは不幸中の幸いかな。箱の中に居たから外に放り出されなかったんだろうね」
 メリュの見立てでは、頭部からの出血が多いものの傷自体は浅く、命に別状はない。との事だった。手当を受ける少女の穏やかな顔に、セツも釣られて表情を緩ませる。
 ほどなくして、メリュは作業の手を止めて深い息をついた。
「これでよし。セツ、ちょっとの間だけ、この子の様子見ててね」
 少女の背を木に預けたメリュは、セツの背負った装備から革製の袋――調理用の道具を入れたもの――を手に取り、雨の中へと飛び出していった。少女が目覚めた時のために何か作るつもりだろうが、道具だけ持ってどうするつもりなのだろうか。
『……まぁ、なんとかするだろう』
 セツは考える事を放棄して、与えられた仕事をこなすことにした。もっとも、やるべき事は少女の経過観察のみ。実質的に休憩のようなものだと思っていいだろう。
 セツは少女の隣に身を伏せた。気が抜けたせいか、一気に全身を脱力感が襲う。思えば、ろくな休息も取らずに精神を尖らせ続けていた。気づかない内に疲れが溜まっていたらしい。起きて様子を見なければ、と抗ったものの、セツはそのまままどろみの中に意識を落としていった。

 薄く開いた目に映る空は、夕日の色に染まっていた。
 寝過ぎたか、とセツは慌てて身を起こした。辺りにメリュの姿が見えないため、それほど長い時間寝ていたわけではないはずだ。と自分に言い聞かせ、少女の居るであろう場所へ目をやる。幸い……と言って良いのかわからないが、彼女はまだ眠り続けていた。寝ている間に逃げられていた、などという失態を晒さず済んだことにセツは安堵した。
 そして気づいた。もし少女が目覚めた時、メリュがここに戻ってきていなかったらどうなるのだろう。少女の視点で考えてみれば、事故に遭って気がついたら隣に巨大な化け物が鎮座していた、なんて状況を冷静に受け止められるだろうか? 無理だ。間違いなくパニックを起こすに決まっている。落ち着かせようにも、セツは人間の言葉を理解できても話すことはできない。――よく考えたら、これは非常にマズいのではないか。セツの心中が焦りに埋め尽くされた時。
 動揺が伝わったのか、少女が微かに身動ぎした。
「ん……」
 続いて寝ぼけたような声。ダメ押しと言わんばかりに、少女の双眸がゆっくりと開かれていく。そして、灰色の瞳がセツを真っ直ぐ捉えた。――叫ばれる。反射的にセツは身構えた。
 ところが、予想に反して少女は冷静だった。眼前にいるセツには目もくれず、周囲をゆっくりと見回していく。辺りをひとしきり眺め終えた後。
「……着いたんでしょうか?」
 頭に巻かれた包帯を気に手を当てながら、小首を傾げて呟いた。抱えた膝の間に顔を埋め、ぼーっと地面を見つめ始める。
 セツは対応に困った。騒がれるのはマズいと思っていたが、まさか完全に無視されるなど考えもつかなかった。竜より包帯の方が気になるとでも言うのだろうか。
 長い沈黙が訪れた。少女はただただ地面を眺め、セツは少女に生温い視線を送り続ける。木々のざわめきがやたらとうるさく感じた。
『お、おい』
 にらみ合いの末、先に動いたのはセツの方だった。セツの声を意味のある言葉として認識できるとは思えないが、存在をアピールするだけなら意味が通る必要はない。
 声が届いた瞬間、彼女は弾かれたように顔を上げ、セツの方へと視線を向けた。困惑と恐れが、夕日に照らされた彼女の顔を青く染める。――こんな顔を向けられるのはやはり慣れない。自分が起こした行動の結果だとしても、だ。
 我ながら面倒な奴だ。と、セツは自嘲した。ざわつく心に鞭を打ち、できるだけ敵意を感じさせないようゆっくりした動作で、少女の目線まで顔を下げる。襲いかかる意思が無いと伝わってくれれば良いのだが。
 意味を成さない短い言葉が、少女の口から漏れ出る。落ち着きなく左右の指を絡め、居心地が悪そうに身体を震わせた。
 再び気まずい静寂が訪れるのかとセツが覚悟した時、少女が意を決したように唇を引き締め、震える声でセツへ語りかけた。
「あ、あの……ひょっとして、あなたがヌシ様ですか?」